2012年05月28日
2012年05月27日
2012年05月25日
あの時代―芥川と宇野-廣津和郎 その三
桜木町の通りで宇野浩二が老母と障害を持つ兄と妻の肩を抱き「これだけが宇野浩二の家族だぞ! おうお! おうお!」と咆哮した時の光景が廣津の頭には生々しくこびりつき、万が一宇野が回復しなかったなら、残された家族はどうなってしまうのかと心配だったのだ。
「君はほんたうにさう思ふかね」
「ああ、さう思ふよ」
「僕は芸術家の死時などといふものについてはてんで考へないね――僕は自分の事を云ふと、家族の者が自分よりみんな弱いやうに思ふので、僕がみんなを見送ってやらなければならないと思ってゐるね。その為には八十までも生きてやらうと思ってゐるよ」
「ほんたうに君はさう思ふかね?」
「ああ、ほんたうにさう思ふよ」
この後三人はカフェで一休みし、何となしに亀戸の私娼窟へ円タクを走らせた。車を降りて同じ場所を目指す若者の群れに混じり、同じような格子戸の並ぶ家々の覗き窓を冷やかしながら、ただ黙々と廓の中を歩いて回った。
慌てて追いかけてきた廣津に、芥川は大きく肩を震わせて言った。
「さうかね。そんなにも思わなかったが」
「おお、気味が悪い。地獄だね、やっぱり、此処は」
廣津は一笑に付しかけたが、彼の真剣な怯え様を見て、幻覚を見ているのだろうかと思った。
廣津が芥川と会ったのは、これが最後となった。
後日、廣津は芥川が自死する二日前に、宇野の妻の元を訪れ、宇野に上げて欲しいと菓子折りと浴衣地を差し出したと宇野の妻から聞いた。。
そして芥川は、宇野から来た手紙を懐から出し、それを宇野の妻に向かって読んで聞かせて暫くの間泣いていたそうだ。
「あの時代」廣津和郎理知で武装して戦へるだけ戦って来た弱い正直な魂が、刀折れ、矢尽きて、泣き崩れてゐるやうな侘しい姿を、私は宇野の細君の話を聞きながら思ひ描いてゐた。芥川君は警句を吐いて人をやり込めながら、後では「実は自分がやり込められた」と思ってゐた人なのである。議論で人を負かしても、「自分が負けた」と思ってゐた人なのである。或る人達は芥川君の「嘘」を指摘して得意になったが、併しその「嘘」から手痛い復讐を受けたのは芥川君自身の正直な魂であった。寧ろ病的な程臆病な良心の持主だったと云へるだろう。
廣津もまた両親と息子、妻を見送り、言葉通り七十七歳まで生き、死の直前まで現役であった。
下:若き日の廣津和郎 (上は片岡鉄平か)
左:若き日の宇野浩二 右:葛西善蔵
鵠沼の東屋にて 真ん中:宇野浩二 右:芥川龍之介 (女性は谷崎潤一郎の元義妹せい子)
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2012年05月24日
あの時代―芥川と宇野-廣津和郎 そのニ
痩せ衰えて蒼白な顔をした芥川は、廣津にこんな事を言ったのだった。
「今日鵠沼を出て来て汽車に乗ると、沿線が真っ赤に燃えてるんだよ」と彼は眼を大きく瞠って不思議な事を報告するやうに云った。
「え、何処か火事だったの?」と私は藤沢から横浜までの沿線の景色を思ひ浮べ、どの辺が燃えたのかと火事を想像しながら訊いたが、彼はそれきりその事には興味がなくなったやうに答へず、例の微笑を湛へた眼を少し伏せてゐたが、再び眼を上げると急き込んだ口調で他の事を云ひだした。
「君、義兄が自殺してね」
「ああ、知ってゐる、知ってゐる」と私はうなづいた。彼の義兄が近頃何か複雑な事情があって自殺したといふ事を、私は新聞で読んで知ってゐた。
「弱っちまふんだよ。あの後始末がまだついてゐないんだよ。あれも俺の肩にかかって来るし……その外にまだいろいろあるんだ……俺はもうやりきれないよ」
彼はしょんぼり肩をすぼめ、もう背負ひ切れないといふ表情をした。それが子供っぽくいたいたしく見えた。疲れ切ってくたくたになったといふ感じであった。
廣津は芥川に、我々はそういう義務を背負う年齢に来ているのだと慰めたが、それは自分自身に言い聞かせた言葉でもあった。
そして、芥川の言うことが何となく取り留めがないのを不審に思い、彼が自死を遂げてからは、この時の火事の話も幻覚だったのだろうかと回想している。
廣津が茂吉の手が空くのを戸外で待っていると、そこに一台のタクシーが門を入ってきた。車から降りた夏羽織の男は芥川龍之介だった。
廣津は、芥川が宇野の発病に怯えながらも、異常な好奇心を抱いているように見えたと言う。そして、宇野や廣津に、自分の持っている鎮静剤のヴェルナールを勧めたがった。







