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2012年11月30日

愛についてのデッサン 佐古啓介の旅-野呂邦暢

前回書いた「昔日の客」つながりで、野呂邦暢の本を読む。みすず書房で出している、「大人の本棚シリーズ」の一冊。「愛についてのデッサン 佐古啓介の旅」である。

愛についてのデッサン――佐古啓介の旅 (大人の本棚) [単行本] / 野呂 邦暢 (著); みすず書房 (刊)

この作品は「野性時代」1978年7月号から12月号まで6回に渡って連載され、1979年に一度角川書店から刊行されている。
そちらは残念ながら絶版になっているようだが、2006年にみすず書房から出されたものは、今でも手に入る。
「大人の本棚シリーズ」からは、他にも二冊野呂邦暢の本が出ているので、彼の愛読者には嬉しい事だろう。
カバーの柔らかい、表紙の色がきれいなシリーズだ。

作者の野呂邦暢は、この角川版が出た翌年、42歳で亡くなっている。まだまだ若い芥川賞作家の早すぎる死であった。

彼は若いころ「昔日の客」の著者である、関口良雄の営む古書店へ度々出向いては、なけなしの金をはたいて本を買っていたそうで、この店主に叱られたり優しくされたりしながら、古書店を舞台にした小説の構想を練っていたのではないだろうか。

「愛についてのデッサン 佐古啓介の旅」は、古書店の主である父を亡くした二十五歳の青年が、妹とともに店を引き継いで成長していく物語である。本好きなら、そそられるテーマではないか?

神田にある出版社の若い編集者が、仕事を辞めて父の古書と店を引き継ぎ、旅をしながら本と客をつなぐ謎を詳らかにし、つかの間触れ合う美女に後ろ髪引かれる物語は、ちょっと「浅見光彦シリーズ」に似ていなくもない。

一話完結ではあるが、六作品を通して紐解かれるのは、長崎出身で、自分の過去を何も語らないままに逝った父の来歴である。

優しい文章と、昭和の懐かしい生活の描写は心惹かれるものがあるのだが、連作最後に明かされる若い頃の父の秘密が、ある人物にあっさり全て語られてしまうのが少し惜しい。
雑誌連載で、紙面に限りがあったのかもしれないが、出来ればもう少し書き足して盛り上げて貰いたかった。
作者もまた、このシリーズを続けてみたかったのではあるまいか。

ちなみにタイトルの「愛についてのデッサン」は、福岡県の医師、詩人である丸山豊が出した詩集のタイトルを、許可を受けて付けさせて貰った、と後書きにある。
この詩集も、若き古書肆佐古啓介の思い出の本として、作中に現れるのである。

恋心は抱いても押しの弱い啓介、しっかり者の妹、本絡みの依頼を持って店を訪れる院生の友人、博学な図書館員など、ドラマ化しても面白そうな登場人物ばかりなのだが、ラノベと異なるのは彼らの容貌に関してはほとんど触れていない点だろうか。
作中に現れる数々の古書と稀覯本と共に、彼らの佇まいを想像するのも楽しいだろう。

ネットも携帯も電子書籍も無い、本の存在感が今より重かった時代の物語である。
posted by 風花散人 at 21:07| 北海道 ☔| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月24日

昔日の客-関口良雄

関口良雄は古書店山王書房の店主であった。昭和二十四年に開店したこの店には、尾崎一雄、尾崎士郎、上林暁、三島由紀夫といった著名な文士たちが顔を出し、多才で話好きな店主と交流を深めていた。

「昔日の客」は、この古書店の店主が敬愛していた作家や、店を訪れた様々な客たちの思い出話などをしみじみと綴った随筆集である。
元々、同人誌などに掲載していたものに、幾つか書きおろしを加えて昭和五十三年に三茶書房から出版されたのだが、残念なことに主はその前年に病死されている。

この絶版になっていた本を、平成二十二年に夏葉社が再販した。
新刊書店や図書館で、鴬色の布でシンプルに装丁された単行本を見つけることが出来るだろう。
古書店の帳場から、本や作家たちの姿を眺めているような気分でその雰囲気に浸れる良書だ。

ちなみに、タイトルの「昔日の客」は、芥川賞作家で四十代で早逝した野呂邦暢が、店主に自著を送った際、見返しに書き付けた一文によるようだ。

「昔日の客より感謝をもって」野呂邦暢 と。

彼も又、若い頃に山王書房に出入りし、店主に厳しくされたり優しくされたりしながら、文学への志を胸に秘めていたのだろう。

電子書籍の発展も良いことではあるが、本や店があるからこそ生まれる、人との交流や想いは、どうして捨てられるものではない。
本好きには一読をお勧めする。
個人的には、豪快で陽気な尾崎士郎の描写が好きだ。


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posted by 風花散人 at 01:34| 北海道 ☔| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月18日

竈神と厠神-飯島吉晴

竈神と厠神 異界と此の世の境 (講談社学術文庫) [文庫] / 飯島 吉晴 (著); 講談社 (刊)

竈神と厠神 異界と此の世の境 (講談社学術文庫) [文庫]
飯島 吉晴 (著); 講談社 (刊)

この本は、主に日本の農家に伝えられてきた、古い土俗信仰について調査したものだ。
小説ではないので、ちまちま読んでいたら随分時間がかかってしまったが、大変面白い内容である。

ただ、読んだのは、この画像にある文庫本ではなく、人文書院から出したハードカバーの方で表紙のデザインも異なる。
この木彫りの面は、竈の後ろの壁に掛けられたという、竈神なのだろうか。

竈神や厠神以外にも、オタナサマやオシラサマと言った、生活に密着し、信仰の対象になっていた「裏の神」が沢山登場する。

竈や囲炉裏、井戸や納戸が家から姿を消しつつある現代では、こういった神々や祀り方は、懐かしいフォークロアと片付けられてしまいそうだが、大晦日や正月、子供の生長に合わせて行われる行事などに、そのマジナイや祈りは連綿と受け継がれているのだ。

時間や季節の区切りだけではなく、異界と此の世をつなぐ境の神は、川や橋といった地理的な区切りにも現れる。
あまり立派ではない姿をした神々は、丁重に迎えれば富と繁栄を約束し、禁忌を破れば怖ろしく祟る諸刃の剣だ。

民話や言い伝えの記述も興味深い。
東京の淀橋についての面白い言い伝えが書かれている。

 東京新宿の淀橋は、もとは「姿見ずの橋」と称されていた。この地で財をなした中野長者がその財宝を下人に背負わせてこの橋を渡り、近くに埋めたが、下人がそれを掘り出すことを恐れて下人をそこで殺して埋めてしまった。こうして何人もの下人が殺され、下人が橋を渡る姿は見ても、帰りに渡る姿を見ないので「姿見ずの橋」といわれた。財宝と死、長者と下人という対立が、この橋をめぐって語られている点が興味深い。この橋は、以後、殺された者の怨念がこもり、花嫁行列が通過すると花嫁は必ず死ぬと伝えられている。同様な伝説は各地で語られている。

橋のあちらとこちらは別世界――。



妖怪談義 (講談社学術文庫 135) [文庫] / 柳田 國男 (著); 講談社 (刊)

妖怪談義 (講談社学術文庫 135) [文庫] / 柳田 國男 (著); 講談社 (刊)


posted by 風花散人 at 00:18| 北海道 ☔| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月03日

女妖記-西条八十

女妖記

西条八十の女妖記を読んだ。
中央文庫 2008年初版 カバー絵は耽美で幻想的な画風で人気のある、山本タカト氏の「おまえに接吻するよ。ヨカナーン」
最初の出版は1960年で、中央公論社から出ている

西条八十は明治生まれの詩人、フランス文学者、作詞家である。彼の名前は知らなくても、作詞した童謡の「肩たたき」流行歌の「青い山脈」、軍歌の「同期の桜」などは、大抵の日本人なら耳にしているだろう。
ああいった作詞の他にも、耽美で幻想的な(フランス的な)詩をたくさん書いている。

「女妖記」は、詩や小説ではなく、彼が長い人生の中で出会った「妖しい女達」との出会いと別れを書き綴ったものだ。
個人が特定されてはまずいので、相手の女性は芸妓など、所謂プロが多いのだが、アブナイ素人さんも結構いる。

それにしても西条八十は、モテモテなのである。何故にあんなにモテるのか?著名になった後だけならともかく、まだ二十代の若い頃から、粋なお姉さんに逆ナンされているのだ。

昔の彼の写真をググってみたところ、ヒョロリと痩せた品の良いインテリといった風情だが、当時の女性には魅力的だったのだろうか?
何せ、外国に行っても、たまたま汽車の隣の席に座っただけのフランス娘が、彼を探して宿まで押しかけてくるのだから大したものである。

そして彼は、女に縋りつかれたり好意を寄せられると、どうにも断れない性格らしい。自分でも書いているが、女には極力優しくしてしまうし、怒ったり声を荒げたりは出来ない質なのだそうだ。

女もそれを嗅ぎつけてしまうのか、まぁ兎に角一癖も二癖もある、美しい女達が、不意に彼の前へ現れては、強い印象を残して去ってゆく。
女達は全部で十一人いる。

幾つかの章を抜書きしてみよう。

*  *  *

詩人に毒を飲ませようとした「十一号室の女」

薄幸の若い娘「登山電車の女」

まるで夢野久作の「少女地獄」を地でゆくような「桔梗の話」

フランスの訳あり娘「ネルケの花」


どの思い出も、目眩のしそうな嘘と、奇妙なロマンスに満ちている。
そして、女の嘘は西条八十にとって、決して唾棄するようなものではなく、甘美な阿片のように中毒性のある蠱惑だったのだろう。

奥様は、さぞ大変だったろうと思うけれど……。

*  *  *


  落葉 

    ――序にかえて――

女よ
おまへの白い ふくらかな乳房に
耳を埋めるとき

はら ら ら ら ら ……
遠く聞こえてくるあの音は何であらう
仄かに触れる羽毛(はね)か 夜(よ)につむ粉雪(こゆき)か
軽(かろ)くつぶやく微風か

女よ おまへは何にも知らない
黒くながい睫はいつしかとぢて
桜貝のやうな唇からは
しづかな寝息が洩れてゐる

はら ら ら ら ……


ああ またしても眼に浮ぶ谿(たに)添ひの山路(やまみち)
そこには二人三人の男が 鞭をあげて
黄金(きん)の驢馬を追ってゐる
かれらの頭上には繊(ほそ)い夕月
さめざめと 雨のごとく降る落葉

女よ 深夜
ひとりめざめては寂しい
おまへの白い ゆたかな肉体の底に
今宵もきこえる落葉(おちば)
はら ら ら ら ら ……

  ――詩集「見知らぬ愛人」より 西条八十




女妖記 (中公文庫) [文庫] / 西條 八十 (著); 中央公論新社 (刊)
女妖記 (中公文庫) [文庫] / 西條 八十 (著); 中央公論新社 (刊)

posted by 風花散人 at 23:32| 北海道 ☔| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月27日

大正時代のカフェー・パウリスタ

古新聞を片付けていたら、今年の4月26日読売新聞の「家庭面の一世紀」という記事に、明治44年銀座6丁目に開いた「カフェーパウリスタ」の事が書かれていた。
開店当時の宣伝文句が「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き」コーヒー。

ここは女給を置かず、若いボーイがサービスする硬派なカフェーで、当時の文士たちも、コーヒーとドーナツを求めて足繁く通った店なのだ。
現在は銀座8丁目に移転して、今も老舗の珈琲店として営業されている。

――パリを模したしゃれた店の2階に婦人席があり、平塚らいてうが率いた青踏社ゆかりの女性たちが集った。――
と記事にあった。

それで、ああ宇野浩二の「文學の三十年」にも、そんな事が書かれていたっけ、と思い出したのである。


宇野浩二「文學の三十年」四

 私が青鞜社の同人の何人かの顔だけ知ってゐるのは、この事は前に書いたが、銀座の(今の資生堂の)横町(その頃は、時事新報社があって、その向かひ)にあった、カフェエ・パウリスタといふ珈琲と菓子だけしかない喫茶店があって、その店に毎晩ほど出かけたからである。
 つまり、そのカフェエ・パウリスタに青踏社の連中が毎晩ほど出かけて行ったからである。さうして、どういふ譯か、別に文學談をした事もなく、四方山の話もした事もないのに、尾竹紅吉と顔だけの親しい知り合ひになった。それは、尾竹紅吉女史が、五尺六七寸もあるかと思はれる長身のためであったか(略)

 これが、たしか大正二三年頃であるから、今から二十五六年前になる譯であるが、その時分。私が、何時間ゐても、消費したのは、一杯金五銭の珈琲二杯と一個金五銭のドオナツであったから、合わせて金十五銭であった。これを思ふと、二十五六年の間に珈琲とドオナツほど物價の上がり方の少ないのは稀な例である、といふ事になる。
 かういう無駄話を書きながら、四半世紀前のカフェエ・パウリスタを心の中に描いてゐると、當時、私より一歳下であるから、二十一二歳であった佐藤春夫が、山高帽をかぶり、その山高帽に大變よく似合ふ洋服を来て、珈琲沸しの側の臺の前を横切るやうに通った洋風の伊達な姿を思ひ出す。さうして、この時の佐藤の姿を、ときどき思い出して、語り合ふのは鍋井克之である。

 又、この時分の佐藤の洋風の伊達な姿を、別の場所で見て強い印象を受けた廣津和郎とも、しばしば思ひ出して、語り合ふことである。

読売新聞の記事によると、大正時代の「ドナス」(ドーナツ)は、至ってシンプルな材料で作られていたようだ。
レシピが紹介されていたので、抜粋してみよう。

1915年(大正4年)1月24日家庭面に紹介されたレシピ

卵黄2個と砂糖大さじ2杯、バター大さじ1杯を混ぜ、牛乳大さじ2杯を少しずつ入れ、おおよそ10分ほどよくかき回す。
卵白を泡立てて加え、メリケン粉を大さじ10杯、ベーキング粉を茶さじ1杯加えた生地を板の上で伸ばす。
型抜きは茶筒の蓋を使い牛脂で揚げる。

以上なのだが、このままレシピ通りで作ると、ゆるくて伸ばすのは難しいらしい。油に直接落とすやり方で、何とかなるそうだ。
「甘い」というだけで十分贅沢だった時代の、素朴なドーナツの味がするのだろう。

大正時代、裕福な家庭でのこととは思うが、主婦が珈琲の生豆を買い、鍋で焙煎し、おやつにドーナツを揚げ、お中元にコーヒーカップを贈っていたとは、なかなか趣深いものである。




posted by 風花散人 at 21:52| 北海道 ☔| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月25日

あの時代―芥川と宇野-廣津和郎 その三

芥川は歩きながら、廣津に宇野の変調を肯定し、かつ羨望するような事を言った。「若しあのままになったとしても立派だよ。発狂は芸術家に取って恥じゃないからね。――宇野もあれで行くところまで行ったといふ気がするよ」

廣津はその言い方に反感を感じた。彼にとってはそんな芸術家の美学より現実の方が重要だったのだ。
桜木町の通りで宇野浩二が老母と障害を持つ兄と妻の肩を抱き「これだけが宇野浩二の家族だぞ!  おうお! おうお!」と咆哮した時の光景が廣津の頭には生々しくこびりつき、万が一宇野が回復しなかったなら、残された家族はどうなってしまうのかと心配だったのだ。

「そんな事は、併し芸術家として止むを得ないよ」と芥川は痩せた肩を聳やかす。
「君はほんたうにさう思ふかね」
「ああ、さう思ふよ」
「僕は芸術家の死時などといふものについてはてんで考へないね――僕は自分の事を云ふと、家族の者が自分よりみんな弱いやうに思ふので、僕がみんなを見送ってやらなければならないと思ってゐるね。その為には八十までも生きてやらうと思ってゐるよ」
「ほんたうに君はさう思ふかね?」
「ああ、ほんたうにさう思ふよ」

切れの長い芥川の眼には微笑とともに、少しばかり皮肉な色が浮かんでいたと言う。
この後三人はカフェで一休みし、何となしに亀戸の私娼窟へ円タクを走らせた。車を降りて同じ場所を目指す若者の群れに混じり、同じような格子戸の並ぶ家々の覗き窓を冷やかしながら、ただ黙々と廓の中を歩いて回った。

歩き疲れて、お茶だけでも飲まして貰おうと格子戸の奥の女に声を掛けると、彼女は二つ返事で立ち上がって木戸を開けようとしたが、その姿を見た芥川は突然おお!と叫び一散にかけ出した。
慌てて追いかけてきた廣津に、芥川は大きく肩を震わせて言った。

「見たか、あれを! あれは幽霊だよ」
「さうかね。そんなにも思わなかったが」
「おお、気味が悪い。地獄だね、やっぱり、此処は」
廣津は一笑に付しかけたが、彼の真剣な怯え様を見て、幻覚を見ているのだろうかと思った。

宇野の錯乱を芸術家の良き終わり方と嘯いていた芥川も、心の底では自分の身に置き換えて恐怖していたのかもしれない。

三人は気を取り直し、別の娼家の二階でお茶だけ飲ませて貰って一休みし、女には手を付ける事無く雨の中を帰って行った。
廣津が芥川と会ったのは、これが最後となった。

後日、廣津は芥川が自死する二日前に、宇野の妻の元を訪れ、宇野に上げて欲しいと菓子折りと浴衣地を差し出したと宇野の妻から聞いた。。
そして芥川は、宇野から来た手紙を懐から出し、それを宇野の妻に向かって読んで聞かせて暫くの間泣いていたそうだ。
「あの時代」廣津和郎

 理知で武装して戦へるだけ戦って来た弱い正直な魂が、刀折れ、矢尽きて、泣き崩れてゐるやうな侘しい姿を、私は宇野の細君の話を聞きながら思ひ描いてゐた。芥川君は警句を吐いて人をやり込めながら、後では「実は自分がやり込められた」と思ってゐた人なのである。議論で人を負かしても、「自分が負けた」と思ってゐた人なのである。或る人達は芥川君の「嘘」を指摘して得意になったが、併しその「嘘」から手痛い復讐を受けたのは芥川君自身の正直な魂であった。寧ろ病的な程臆病な良心の持主だったと云へるだろう。 

宇野の入院中に芥川は死んだ。芥川の悲報を聞いても宇野の症状に変化は無かった。宇野は神経質で小心ではあったが、その神経には一種の強靭さを持っていた。そして回復して後、彼を心配した母を看取り兄を看取り、妻を看取ってから息子の母である昔なじみの女性と再婚した後、七十歳で逝った。
廣津もまた両親と息子、妻を見送り、言葉通り七十七歳まで生き、死の直前まで現役であった。


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下:若き日の廣津和郎 (上は片岡鉄平か)

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左:若き日の宇野浩二 右:葛西善蔵

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鵠沼の東屋にて 真ん中:宇野浩二 右:芥川龍之介 (女性は谷崎潤一郎の元義妹せい子)



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posted by 風花散人 at 23:01| 北海道 ☔| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月24日

あの時代―芥川と宇野-廣津和郎 そのニ

宇野浩二が錯乱する少し前の昭和二年、二月か三月の頃に、廣津和郎は歌舞伎座の廊下で、数年ぶりに芥川龍之介と会っている。廣津が煙草を吸っていると、いきなり芥川が寄ってきて廣津の肩を掴み「おお、君、俺はもうやりきれないんだ」と話しかけてきた。
痩せ衰えて蒼白な顔をした芥川は、廣津にこんな事を言ったのだった。

「今日鵠沼を出て来て汽車に乗ると、沿線が真っ赤に燃えてるんだよ」と彼は眼を大きく瞠って不思議な事を報告するやうに云った。
「え、何処か火事だったの?」と私は藤沢から横浜までの沿線の景色を思ひ浮べ、どの辺が燃えたのかと火事を想像しながら訊いたが、彼はそれきりその事には興味がなくなったやうに答へず、例の微笑を湛へた眼を少し伏せてゐたが、再び眼を上げると急き込んだ口調で他の事を云ひだした。
「君、義兄が自殺してね」
「ああ、知ってゐる、知ってゐる」と私はうなづいた。彼の義兄が近頃何か複雑な事情があって自殺したといふ事を、私は新聞で読んで知ってゐた。
「弱っちまふんだよ。あの後始末がまだついてゐないんだよ。あれも俺の肩にかかって来るし……その外にまだいろいろあるんだ……俺はもうやりきれないよ」
彼はしょんぼり肩をすぼめ、もう背負ひ切れないといふ表情をした。それが子供っぽくいたいたしく見えた。疲れ切ってくたくたになったといふ感じであった。



廣津は芥川に、我々はそういう義務を背負う年齢に来ているのだと慰めたが、それは自分自身に言い聞かせた言葉でもあった。
そして、芥川の言うことが何となく取り留めがないのを不審に思い、彼が自死を遂げてからは、この時の火事の話も幻覚だったのだろうかと回想している。

宇野浩二の精神状態が変調したのは、この年の六月の事だが、新潮社で一騒動起こした翌日、廣津は青山脳病院の斎藤茂吉を訪ね、宇野の家まで往診を依頼した。
廣津が茂吉の手が空くのを戸外で待っていると、そこに一台のタクシーが門を入ってきた。車から降りた夏羽織の男は芥川龍之介だった。

彼は宇野を訪ね、その様子に驚き、やはり斎藤医師に相談しようと病院を訪れたのであった。
廣津は、芥川が宇野の発病に怯えながらも、異常な好奇心を抱いているように見えたと言う。そして、宇野や廣津に、自分の持っている鎮静剤のヴェルナールを勧めたがった。

廣津が、どんなに眠れなくとも出来るだけ薬は飲まないつもりだと言うと、芥川は、不眠よりは薬を飲んで眠った方がいいと薬を押し付けようとしたが、結局廣津は受け取らなかった。このやり取りでも、二人の性格の違いが良く現れていると思う。

宇野浩二は斎藤医師の判断で、王子にある小峰病院に入院することとなり、彼の妻と廣津が付き添って病院へ行ったものの、診察の後で宇野は「入院を三日待って欲しい」と泣き出してしまい、改めて三日後に、今度は斎藤医師が付き添って入院させてくれたのだった。

肩の荷が降りた廣津と芥川、そして宇野の親友の画家の三人は、宇野の留守宅からぶらりと外へ歩き出した。


――つづく
posted by 風花散人 at 22:53| 北海道 ☔| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月23日

あの時代―芥川と宇野-廣津和郎 その一

「あの時代」は廣津和郎の短編で、昭和の初めに彼の友人である宇野浩二と芥川龍之介が、奇しくも同時期に病んでいた様子を活写した秀作である。それは決して意地の悪いものではなく、温かい友情と思いやりが、知的で冷静な文章で綴られている。
廣津和郎の本も新刊書店ではなかなか手に入らないと思うので、読みたい方は図書館か古書店で探してみるとよい。

簡単に作者の紹介をしよう。
廣津和郎は明治の流行作家廣津柳浪の次男で、七歳で実母を失い十一歳で義母を迎えている。十四歳くらいから匿名で雑誌に文章を投稿し、時々は賞金を貰っていたので、文學に対する志向はあったようだ。
家の貧乏については余り頓着せず、どんな時も「お父様」を信頼し義母を支えた孝行息子であった。
ただ少年時代から常に不眠に悩まされるなど、少々神経過敏で顔色が青く弱々しく見えたそうだ。

長じて早稲田に進学し、懸賞小説に応募したり翻訳をする事で学資を稼ぎ、小説の同人活動も始める。卒業後は毎夕新聞社に勤め、宇野浩二と知りあうのはこの当時の事だ。

二歳年上の兄は大変頭が良かったが、義母に親しまず平気で嘘をつき、成人後は会社勤めも長続きせず、金が無くなると弟が居候している宇野浩二の部屋に転がり込み、弟の留守に彼の持ち物を質屋に持ち込んで、金を手にするや姿を消すようなトラブルメーカーであった。

そして、正義感が強く生一本である廣津和郎は、若気の至りで下宿の娘を妊娠させてしまい、愛の無い結婚をしてから、次々と同情なのか愛情なのか分からないような恋愛遍歴を続け、常に自分の両親、子ども達とその母親、自分と内縁の妻の三つの家計を背負い込んで苦労していた。
志を持って、二度ほど出版の仕事も興しているが、これも失敗に終わっている。晩年になって「松川事件(鉄道転覆事件)」の被告が冤罪であるとして彼はペンで戦った。

――――

彼が、複数の家族の面倒を見る義務を背負い込んでいた、という点が芥川龍之介と似ている。
芥川も養父母、実の父の家、自分の家族を気にかけ、そして後には姉の家族をも背負わなければならなくなる。また宇野浩二も、老母と知的障害のある兄、自分と妻、息子とその母親の面倒を見る必要があった。この当時、三人とも必死で原稿を書きながら、生活は一向楽ではなかった。

そして、芥川は病んで自殺し、宇野は錯乱したが復活し、廣津は耐えて乗り越えた。これは結局気性の違いなのだろう。
廣津は芥川とはそれほど親しくはなかったと記している。会えば親しく話をする程度だったのが、宇野浩二が錯乱した一時期だけより近しくなったと。

宇野が躁鬱病のようになった時、廣津は宇野の妻に相談を受け、精神科医の斎藤茂吉の元へ宇野を連れて行き、入院するまで面倒を見ている。廣津は義理堅く現実的な人間だった。これが立場が逆だったとしたら、宇野は廣津の為に何も出来なかった(しなかった)かもしれない。

斎藤茂吉による宇野の診断は、梅毒による脳障害との事だが、回復してからは滑舌が悪くなっただけで、特に痴呆などの症状は出ていないようなので、ちょっとこれはどうかな、と素人ながら考えてしまう。
それに、錯乱していても、廣津が宇野の部屋にある本などをめくっていると、宇野はパッと普通に戻り、何の異常もない文学談義を始めるのだから、やはり精神的なものだったのではないだろうか。

しかし、彼の錯乱が、彼の家族や廣津を悲しませたのは言うまでもない。
宇野と一緒に新潮社に行った廣津は、宇野が社員にアイスクリームや、ハムエッグとトーストを言いつけるのに困惑した。

 


「あの時代」廣津和郎 昭和二十四年脱稿

「おいおい、此処は新潮社なんだよ。洋食屋ではないんだよ。さういうものは帰りに神楽坂あたりでたべようぢゃないか」
「新潮社といふ事は知ってゐるよ。腹が減ったんだから仕方がないんだ!」と彼は肩をそびやかして癇癪声で叫んだ。
「いえ、お安い御用ですから、直ぐ注文いたします」と苦笑を浮かべた佐藤氏の子息はベルを鳴らして人を呼び、ハムエッグとトーストの注文をした。
 そこに最前の女事務員がアイスクリームを二つ持って来た。宇野はサジに獅噛みつくやうな格好で、そのアイスクリームを貪り食った。そして食ひ終わると、
「さあ広津、行かう」と云って立ち上がった。
「今君はハムエッグとトーストを頼んだんだぜ」
「一時にそんなに食べられるか!」と彼は再び肩を聳やかすやうにして私に向かって怒鳴った。

 
 

――つづく

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2012年05月21日

晩年の廣津柳浪

明治の頃、欧米の文學が日本にも入るようになり、学生や読書人はこぞって原書でそれらの本を読み、そして自分達も新しい文學を日本で作ろうと小説を書き始めた。

二葉亭四迷や坪内逍遥に続き、一躍人気作家になったのは尾崎紅葉で、彼は志を同じくする者達を身近に置き、硯友社という団体を作り、尾崎の自宅にも何人かの若者が書生として出入りしていた。泉鏡花などもその一人である。

廣津柳浪は、その硯友社に属していた作家の一人で、今はほとんど彼の作品を読む人はいないだろうが、江戸趣味と柔らかで情緒的な文章を書き、明治二十年代から三十年代くらいまでは非常に人気があり、永井荷風もその作風を愛し度々面会に訪れた。
青空文庫に二作品だけ公開されているが、この時代の作品にしては読み易い文章だと思う。

一世風靡した硯友社ではあるが、その後田山花袋などの自然主義派が台頭すると、浪漫な作り事の小説は、その人気を落とす一方となった。
当時、印税と云うシステムが確立していなかった為、文筆家は原稿を出版社に売ってしまうと、後は本がどれほど売れようと、己の収入にはならなかった。
その為、人気作家であった尾崎紅葉や森鴎外の遺族でさえ、主人亡き後生活に苦労したという。

廣津柳浪もそんな作家の一人であったのだが、彼は仕事の依頼が絶えた後も、自分の趣味に合わないものを書く気になれなかったらしく、ただ毎日文机の前に座って日を暮らした。
彼には妻と二人の息子がいたが、後に作家になる次男の和郎は、そんな父を疎むどころか、深く尊敬し愛していた。

廣津和郎の自伝的小説「若き日」に、こんな情景が描かれている。

*  *  *


「若き日」廣津和郎

父は一室に朝から晩まで閉籠ってゐた。大体が引っ込んでゐる事が好きな質で、私は子供の時分それは牛込に住んでゐた頃であったが父と一緒に外に出る事があると、父は人通りを避けて裏道ばかりを通ってゐたのを覚えてゐる。
通寺町とか神楽坂の表通りとかいふものが嫌ひで、さうした賑かな場所を遠くの方から迂廻して淋しい暗い町ばかりを選んでゐた。そして人とつきあふといふ事もあんまり好きではないらしかった。

筆を執らなくなるとその傾向が益々ひどくなって来て、部屋に閉籠ったきり今は外出もしなかった。太陽の光線を極度に嫌ひ座敷の障子を青い木綿のカアテンで蔽ひ終日陽の射さない暗い部屋の中に座ってゐた。たづねて来る人もなかった。

*  *  *


収入が途絶えても、父は何も書かず、かと言って他の仕事を探すわけでもなく、家の物を質に入れるなどして暮らしていたが、息子の和郎が早稲田に通う頃には電気も止められ、和郎は大学に行く交通費にも事欠いていた。
親孝行な和郎は、大学を卒業して就職したら、この廣津家の家計を一身に背負う覚悟でいたのだから感心だ。

子供の頃は快活だった和郎が、段々陰鬱な青年になってゆくように見えたのか、父は息子に彼らしいアドバイスをしている。

*  *  *


「若き日」廣津和郎

「どうだ、少し教会にでも行って見る気はないか。キリスト教はどうでも好い。それよりも教会には女が来る。少しお前は異性とつきあって見るが好い」
私が父のさういう心持をはかり兼ねて父の顔を見つめてゐると、父は苦笑に顔をゆがめながら私から眼をはづし、半ばひとり語のやうに呟いた。
「ほんたうをいふと芸妓でも好いんだ。併し俺にはお前に芸妓遊びをさせる金がない……」
私には父のいふ意味がよく解った。私も父の顔から眼をはづして苦笑を浮べたが、併し父の愛情に深く打たれないではゐられなかった。

*  *  *



現代の感覚で判断すれば問題発言ではあるが、若い頃遊廓に入り浸って原稿を書いていた父ならではの心配りではある。
尤もその後の廣津和郎は、父も驚くほどの複雑な女性遍歴を展開するのだが。

posted by 風花散人 at 22:34| 北海道 ☔| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月13日

本郷菊富士ホテル-近藤富枝

本郷菊富士ホテル (中公文庫 (こ21-1)) [文庫] / 近藤 富枝 (著); 中央公論新社 (刊)

最近読んだ本なのだが、なかなか興味深かった。小説ではなく、ノンフィクションである。
今は、こんな事は無いと思うが、明治から戦後くらいまで、若い小説家達は交流が盛んで、一緒に暮らしたり、仕事を紹介しあったり、友人の枠を超えて兄弟のように付き合っていた人達が少なくない。

今、こんな濃い付き合いをしている人達は、お笑い芸人か劇団の役者くらいではないかと言う気がする。
若い漫画家集団が、ともに暮らした場所としてトキワ荘が有名だが、その昔、東京は本郷に、あまたの小説家や著名人が出入りした「菊富士ホテル」という高級下宿が在ったのだ。

この本の作者である近藤富枝さんの叔母上が、菊富士ホテルのオーナーの子息に嫁いだ為、彼女は子供の頃から、このホテルを訪れていたそうだ。何とも羨ましい環境である。

さて、元々外国人向きの高級下宿で、どんな文豪が若い気ままな生活をしていたかと言うと、それはまさに、綺羅星のごとくである。

大杉栄と伊藤野枝(贅沢三昧でツケを払わない)谷崎潤一郎、芸者が貢いでくれた豪華な蒲団の中から出てこない宇野浩二、竹久夢二とその愛人、お葉、文士以外とは口を利かない直木三十五、次から次に女に手を出し、にっちもさっちも行かなくなった広津和郎、女性解放に尽力した宮本百合子と同士の湯浅芳子、そしてホテルのてっぺんにある、塔の部屋に住んだ坂口安吾などなど。

菊富士ホテルは、驚くような文豪の巣であった。
そして、文豪たちの暮らしの、なんと自由で野放図なことか。
彼らは度々下宿代を滞納し、オーナーの頭を悩ませたらしい。

本書には、ホテルの外観写真は少ないが、図面や間取り図が掲載されているので、イメージしやすいと思う。
宇野浩二の「文學の三十年」も併せてお読みいただくと、より当時の雰囲気が解って面白いのでお勧めしたい。

当時の文士達の姿


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posted by 風花散人 at 22:14| 北海道 ☔| 読書日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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