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2012年05月05日

柳川隆之介-客中恋

芥川龍之介は、学生時代から勉強がてらか、翻訳や短歌をてすさびにしていた。途中で放り出してしまった小説なども結構残っていて、その中から後の小説に繋がっているものも少なくない。

ペンネームや号も色々楽しんで付けており、柳川隆之介もその一つである。
「客中恋」は旅の恋という意味だそうだが、大正三年に「心ノ花」に発表されたとある。「心ノ花」が同人誌なのか、短歌雑誌なのかは分からない。

数も多くないので、全部書き写してみたい。芥川龍之介、二十二歳の初恋の思い出なのか、若く瑞々しい歌だ。

*  *  *

客中恋

 初夏の都大路の夕あかりふたゝび君とゆくよしもがな

 海は今青き眶(まぶた)をしばたゝき静に夜を待てるならじか

 君が家の緋の房長き燈籠も今かほのかに灯しするらむ

 都こそかゝる夕はしのばるれ愛宕ほてるも灯をやともすと

 黒船のとほき灯にさへ若人は涙落しぬ恋の如くに

 幾山河さすらふよりもかなしきは都大路をひとり行くこと

 憂しや恋ろまんちつくの少年は日ねもすひとり涙流すも

 かなしみは君がしめたる其宵(そのよひ)の印度更紗の帯よりや来し

 二日月君が小指の爪よりもほのかにさすはあはれなるかな

 何をかもさは嘆くらむ旅人よ蜜柑畑の棚によりつつ

 ともしびも雨にぬれたる甃石(しきいし)も君送る夜はあはれふかゝり

 ときすてし絽の夏帯の水あさぎなまめくまゝに夏や往(い)にけむ

  大正三年九月
  
  [コレラハ大正三年柳川隆之介ノ筆名デ「心ノ花」ニ発表サレタモノデアル。]


*  *  *

どうも舞台は京都っぽいので、祇園の舞子にでも恋をしたのか?大正三年は1914年なので、実に今から98年前の事。詳細は謎のままに。

抜粋は筑摩書房の「芥川龍之介全集第六巻」昭和52年度版から。



芥川龍之介全集 全8巻セット (ちくま文庫) [文庫] / 芥川 龍之介 (著); 筑摩書房 (刊)
芥川龍之介全集 全8巻セット (ちくま文庫) [文庫] / 芥川 龍之介 (著); 筑摩書房 (刊)


posted by 風花散人 at 15:54| 北海道 ☔| 芥川龍之介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月28日

芥川龍之介-若き日の恋と結婚-その七

芥川が自死する一月ほど前の、昭和二年六月二十日に書かれた「或阿呆の一生」の中に、何度か繰り返し現れる女性のイメージがある。
この女性は「月光の女」などと呼ばれ、何者なのかと、芥川亡き後、友人の文士たちや研究者が色々議論を交わしているが、結局個人を特定は出来なかった。
確かに、特定したところで芥川の作品や人格を高めたり貶めたりするものではないが、知りたく思うのも人情と言うものだろう。以下にその箇所を抜粋してみる。

*  *  *

十八 月

 彼は或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光りの中にゐるやうだつた。彼は彼女を見送りながら、(彼等は一面識もない間がらだつた。)今まで知らなかつた寂しさを感じた。……

二十三 彼女

 或広場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のある体にこの広場を歩いて行つた。大きいビルデイングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。
 彼は道ばたに足を止め、彼女の来るのを待つことにした。五分ばかりたつた後、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。が、彼の顔を見ると、「疲れたわ」と言つて頬笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明るい広場を歩いて行つた。それは彼等には始めてだつた。彼は彼女と一しよにゐる為には何を捨てても善い気もちだつた。

 彼等の自動車に乗つた後、彼女はぢつと彼の顔を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顔はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。

二十七 スパルタ式訓練

 彼は彼の友だちと或裏町を歩いてゐた。そこへ幌をかけた人力車が一台、まつ直すぐに向うから近づいて来た。しかもその上に乗つてゐるのは意外にも昨夜の彼女だつた。彼女の顔はかう云ふ昼にも月の光の中にゐるやうだつた。彼等は彼の友だちの手前、勿論挨拶さへ交さなかつた。
「美人ですね。」
 彼の友だちはこんなことを言つた。彼は往来の突き当りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。
「ええ、中々美人ですね。」


三十 雨

 彼は大きいベツドの上に彼女といろいろの話をしてゐた。寝室の窓の外は雨ふりだつた。浜木棉の花はこの雨の中にいつか腐つて行くらしかつた。彼女の顔は不相変(あひかはらず)月の光の中にゐるやうだつた。が、彼女と話してゐることは彼には退屈でないこともなかつた。彼は腹這ひになつたまま、静かに一本の巻煙草に火をつけ、彼女と一しよに日を暮らすのも七年になつてゐることを思ひ出した。
「おれはこの女を愛してゐるだらうか?」
 彼は彼自身にかう質問した。この答は彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だつた。
「おれは未だに愛してゐる。」

*  *  *

この四つの文章のうち、幾つかは秀しげ子の事で、幾つかは彼が昵懇にしていた芸者ではないかとも推測されている。三十の「雨」は、舞台としては帝国ホテルの客室だろうか。そして七年の歳月を共に過ごしているとなると、文子夫人と結婚して三年後あたりから、この女性と深い仲になり、死の直前まで続いていた事になる。

この女性は、まさか秀しげ子の事ではないと思うが、誰なのかは未だ謎だ。彼が愛した女性達は、芥川から貰った書簡類を死ぬまで大事に隠し通した事だろう。

昭和二年、芥川の心中事件の後、彼は友人の小穴隆一を誘って、可愛がっていた芸者の「小かめ」に会わせたいからと、春日と言う茶屋に出かけた。
芥川は自分のお気に入りの女性を全て小穴に紹介しておきたかったらしく、こんな事を言っている。

*  *  *
「二つの繪」小穴隆一

「もうこれで自分の知ってゐる女の、ひととほりは君にも紹介してしまったし、もう言っておくこともないし、すると……」
と、片山さん[越し人、松村みね子]、ささき・ふさ[作家、佐佐木茂索夫人]せい子[女優、谷崎潤一郎の最初の妻の妹「痴人の愛」のモデル]、小町園のおかみさん[鎌倉にある旅館の女将、芥川は結婚前から利用している]といったやうな芥川のいふ賢い女人の名をあげてゐた。
(中略)
芥川が僕に芥川の言ふ賢い女人たちの名をあげてゐるので、僕は麻素子さん以外にまたほかの女人たちに縋らうとする芥川の気持ちを感じた。さうして芥川は依然として片山さんを第一に頭のなかにいれてゐると見てゐた。片山さん、またはその他の女人たちのだれにもせよ、ホテルの繰返しをされるやうでは、芥川のためにも、僕自身もたまらんと思ったので、
「相談するなら小町園のおかみさんがいい。小町園のおかみさんなら大丈夫後日のまちがひもないし、ことによるとあの人ならいい知恵があるかも知れない」
「ほんとに君もさう思ふかね」
(以下略)

*  *  *

上記に上げた女性達は、芥川が一目置く女性という意味だが、小町園の女将は、愛人だったのではないかと考える人達も多いようだ。ただ、文夫人も彼女に相談する事があり「賢い女の人」と評しているので、女将の商売柄、その辺の事は弁えた交際だったのではないかという気もする。(私見だが)ちなみに女将は既婚者で、芥川より大分年上だったらしい。甘えるには丁度良い相手なのかもしれない。

芥川は小穴に薦められた事もあって、女将に会いに行ったが、結局彼の望みは「死にたい」という事だけなので、力にはなれなかったようだ。
友人の小穴も死にたくないと言うし、妻は、子供を残して一緒には死ねない、どんなひどい父親でも生きていて欲しいと泣いた。芥川は、もう一人で死ぬしかないと覚悟を決めた事だろう。

芥川は晩年、一度だけ、夫人と赤ん坊の三男を連れて、三人で湯河原まで一泊しに出かけた。心身共に疲れきっている芥川は、帰りの電車でシートに横になり寝てしまう。
そんな夫に文夫人は思い切って願い事を言ってしまう。「奈良に連れて行って下さい」と。芥川はちょっと間を置いてから「贅沢言うな」と言った。
夫人の無理な注文は、旅行の予定でも立てれば、少なくとも夫がその日までは生きる気になってくれるのではないかと言う願いだったのである。

夫に女のいる事にも、多分夫人は気づいていただろう。他所に子供がいる、と言われたらと不安になった事もあったし、夫の借りていた鵠沼の借家から、一人で田端の家に帰った時、緊張の糸が切れて泣き出した事もあったそうだ。

小穴に、芥川が帝国ホテルで心中をしようとしているから一緒に止めに行きましょうと急かされても、家の年寄りに相談してからと言って小穴をヤキモキさせた彼女は、夫亡き後も芥川家に留まり、伯母のフキを看取っている。彼女は、見事に明治生まれの文士の妻で芥川家の嫁であった。


夫人の言葉にこうある。

「私がもう少し現代的で、明朗に振るまっていましたならば、主人も楽しいことがあったのかも知れません。私たちの結婚生活は、わずか十年の短いものでしたが、その間私は、芥川を全く信頼してすごすことが出来ました。その信頼の念が、芥川の亡きのちの月日を生きる私の支えになったのです」

結婚前は、気恥ずかしいほど甘い恋文を彼女に送った芥川。釣った魚には餌をやらない主義だったのか。
結婚後も、若い「文ちゃん」に、もっと優しく出来なかったものかと思うのであるが、どうだろうか?
まぁ、男女の関係など、所詮他人には分からないのだけれど。

――おわり




追想芥川龍之介 改版 (中公文庫 R 35) [文庫] / 芥川 文, 中野 妙子 (著); 中央公論新社 (刊)

二つの絵―芥川龍之介の囘想 (1956年) [−] / 小穴 隆一 (著); 中央公論社 (刊)


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2012年04月27日

芥川龍之介-若き日の恋と結婚-その六

大正十年の夏に中国より帰国してから、ずっと芥川は体調が悪く、自分でも「神経衰弱だ」と周囲に言うようになっていた。後に、小穴隆一に「支那で何度か死のうと思った」とも語っているので、この頃から精神的にはかなり脆くなっていたのだろう。

九月の下旬になると「龍門の四天王」の一人、南部修太郎を誘って湯河原へ湯治に出かけている。この南部修太郎は、慶応出の作家で、芥川に師事していたとは言え同い年である。
南部も芥川を凌ぐ作家になろうと気張っていたのだろう、彼ら二人の手紙のやりとりを読んでいると、南部はさかんに芥川の作品を批判し、それを逆にやり込めようとする芥川の応酬は、二人の間に悪意などは全く無いと宣言しながらも熾烈であった。

そんな南部を誘って、三週間近くも温泉旅館に滞在するのは、途中で退屈になったのか、芥川は他の友人達に遊びに来いと葉書を送り、結局小穴隆一も後で合流している。
だが湯治から戻っても、芥川の健康は回復せず、原稿に追われるプレッシャーのせいか、睡眠薬なしには眠ることもままならない状態だった。

そして年が明けて大正十一年、芥川は数え年三十歳だ。
彼の「遺書」には、三十歳を過ぎてから新たな情人は作らなかったと、書き残されている。過去に関係のあった情人とは、全て綺麗に清算済みなのかは分からないが。

南部修太郎とは、なぜか湯河原旅行の後、あれほど頻繁だった手紙のやり取りの形跡が無い。尤も、発表されていないだけの事なのかもしれないが、この大正十一年に、一通だけ、意味深長な手紙が残されているのだ。

*  *  *

大正十一年八月七日 田端から 南部修太郎宛

拝啓 原稿用紙で失敬する。君の手紙は有り難く読んだ。君はあの手紙を書いて好い事をした。しかしもっと早く書いてくれるとなほ好かった。
僕のした事の動機は純粋ではない。が、悪戯気ばかりでした事ではない。純粋でない為にはあやまる。悪戯気ばかりでない為にはいつか君にわかって貰ふ時がくるだらう。
人生と云うやつは妙なものだ。君と僕とはお互に何の悪感も持ってゐない。その癖かう云ふ事になるのだ。[五十九字削除]それだけは承知してゐてくれ給へ。
交を絶つ絶たないは僕がきめるべき事ではない。君の判断に一任すべき事だ。しかしお互の為に計れば喧嘩なぞせぬ方がよいかも知れない。

結婚する事は小島に聞いた。君の為にこの位喜ぶべき事はない。結婚後も君はあすこにゐるのか? もし君が絶交すると云はなければ、君らしい物でも祝はうかと思ふ。
わが友南部修太郎よ。結婚し、愛し、而して苦め。作家たる君に欠けてゐるのは、唯この甘酸窮まりなきリアルライフの体験ばかりだ。僕は今忙しい。毎日原稿に追われてゐる。おまけに僕の家は暑い。一方ならない苦しさだ。
君の返事を待っている。

七日                 餓鬼
南部修太郎様

*  *  *

芥川が「した事」とは何だろう? 「闇中問答」には、「――愛してゐる女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまつた。」とあるが、この事と関係があるのだろうか?

芥川は、愛人であった(所謂ダブル不倫)秀しげ子が、南部修太郎とも通じているのを知った。芥川にとって、それは単なるスキャンダルではなく、大きな人生の躓きになったのだ。
彼は親友の小穴隆一に、知らずに南部と同じ女を愛したが為に死ぬ、と書付けを渡した事もあった。

芥川は表面上は南部に対し鷹揚に構えていたが、本心では、この三角関係(四角関係)を許せなかったのではないだろうか。
もし芥川が、秀しげ子の夫に手紙を書き、自分と南部と彼の妻の情交を洗いざらいぶちまけたとしたら、結婚間近の南部が芥川に絶交を宣言しても不思議ではない。

しかし、八月二十六日には、南部が芥川家に一晩泊まった旨を証明する、少しばかりふざけた証書を芥川が作って南部に送っている。
絶交は避けられ、二人は仲直りをしたのだろう。少なくとも表面上は……。


――つづく
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2012年04月25日

芥川龍之介-若き日の恋と結婚-その五

大正八年、妻とともに実家で暮らすようになった龍之介は、押しも押されぬ流行作家になっていた。
それとともに交友関係もどんどん広がり、女の影もチラホラ見え隠れするようになってきた。
「越し人」の片山廣子も、風邪で寝込んでいる芥川に見舞いの手紙を送っているし、「狂人の娘」の秀しげ子や平松ます子と知りあうのもこの年だ。

ここに奇妙な手紙が残っている。


*  *  *

大正八年 十月二十一日 佐佐木茂索宛

啓 手紙のなくなるのは不安だな あの中には君に封筒を書いて貰った礼や何かあったから余計僕も不安だよ
さういへば少しのろけてもゐたやうな気がする それを君以外の人間に見られるのは恐れるな
(中略)
丁度この手紙を出して一日くらいすると君の書いた封筒の手紙が届く筈だから返事を書くのは見合わせてくれ給へ
ぶつかると可笑しい
(以下略)

*  *  *

どうも、佐佐木茂索に封筒の宛名書きをしてもらい、それを女に渡して、芥川に手紙を送る際に使わせていたらしい。結婚してからの方がお盛んのようだ。

だが、この頃から彼の身体は、段々弱くなっている。元々、胃腸が弱く、学生の頃から薬を常備しておく神経質な所があったが、執筆に専念するようになってからは、しょっちゅう風邪を引き腹をこわしていたようだ。
これは年々深刻になり病歴は増え、死の直前まで続く長い長い苦しみの始まりだった。

翌大正九年の三月、長男、比呂志が生まれる。友人菊池寛の名前から名付けた。ちなみに次男、多加志は小穴隆一の名前から取り、三男、也寸志は学生時代からの親友恒藤恭から取っている。
そして、例のしげ子との仲が深まった年だと考えられている。
身内の不幸が続き、長男が産まれた事を、友人の恒藤恭に知らせる手紙には、女についての記述がある。

――不相変女にも好く惚れる。惚れていないと寂しいのだね。惚れながらつくづく考える事は、惚れる本能が煩悩即菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと、向上即堕落だと云ふ事だよ。理屈で云へば平凡だが、しみじみさう思ひ当る所まで行くと、妙に自分を大切にする気が出て来る。実際惚れるばかりでなく、人間の欲望は皆殺人剣活人剣だ。――


しかし、甘美な恋の果実は、いざ口にした途端に腐りだした。その汚らわしい醜悪さに芥川は逃げ出し、翌大正十年の三月から七月の半ばまで、中国へ取材旅行に出かけて女の手を逃れた。
この取材旅行は、契約している新聞社の仕事なので、旅行記を書く前提の旅なのだが、出発直前から風邪を引き、熱が下がらないのを押しての無理な船旅であった。
上海に着いた途端に、また病状が悪化し、彼はそのまま地元の病院に三週間も入院する羽目になったのである。

現地の友人、知人が見舞いに来る中、実家にもよく葉書を書いた芥川であったが、養父宛てに送った手紙の追伸に、珍しく文夫人宛のものがある。

*  *  *

大正十年 六月十四日 芥川道章宛

(略)
二伸 文子雑誌に何か書いた由諸所の日本人より聞き及びたれどまだ僕自身は読まず
悪いことならねば叱りはせねど余り奨励もせぬ事とは存ぜられたし
山本瑤子よりは芥川比呂志の方利巧さうなり もう立てるやうになりしや否や

*  *  *

雑誌社から夫人へ、芥川の日常についてのインタビューかエッセイでも頼まれたのか? しかし、この当時彼は、自分の私生活を活字にするのを嫌っていた。妻がそんな事に関わるのも嫌だったのだろう。

芥川夫人は、若くして結婚したのと、元々の性分であろうが、とても従順な人であった。婚約時代、彼女に対し、文学も何も知らないでいいから、赤ん坊のような無垢な気持ちで来て欲しいと恋文を書いた芥川は、結婚してみるとそれが物足りなかったのだろうか。結婚してから恋をする相手は、世間知と文学に精通した大人の女ばかりであった。

晩年、芥川は夫人のことを、自分には勿体無いくらいよく出来た妻だが、彼女に欠点でもあれば(もしくはこれから欠点の生ずる可能性でもあれば)、もっと自分は気が楽だと小穴隆一に語っている。
そして「姉さん女房」を貰うべきだった、と何度も言ったそうだ。

しかし、もし「姉さん女房」を貰いたいなどと言ったら、芥川家の年寄りが許さなかっただろう。万が一、そんな女性と結婚出来たとしても、家の中を取り仕切っていた伯母のフキと上手くやれるとは思えない。
そして「姉さん女房」を貰っていたら、彼は「無垢な乙女」を妻にすべきだったと嘆いたのではないだろうか?結局は無い物ねだりという気がするのである。

*  *  *

「闇中問答」 ニ  昭和二年遺稿 芥川龍之介

或声 お前の家庭生活は不幸だつた。
僕 しかし僕の細君はいつも僕に忠実だつた。
或声 お前の悲劇は他の人々よりも逞しい理智を持つてゐることだ。
僕 ※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)をつけ。僕の喜劇は他の人々よりも乏しい世間智を持つてゐることだ。
或声 しかしお前は正直だ。お前は何ごとも露(あらは)れないうちにお前の愛してゐる女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまつた。
僕 それも※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)だ。僕は打ち明けずにはゐられない気もちになるまでは打ち明けなかつた。


*  *  *



さて、これは一体誰の話なのだろうか……?


――つづく
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2012年04月23日

芥川龍之介-若き日の恋と結婚-その四

大正七年の二月に結婚した芥川夫妻は、三月の末に、鎌倉に在る小山家別邸を新居として借り、引っ越す事となった。
二人暮らしに部屋数五つの家は広く、庭には蓮池があり、芭蕉も植えているという風流な家であった。

伯母が時々遊びに来るものの、静かな二人きりの暮らしは平安で、文夫人にとって、この鎌倉暮らしが一番幸せな時代だったようだ。
芥川は、教師と作家の仕事を掛け持ちし、鎌倉、横須賀、東京を行き来し、時には出張もこなしながら、弱い体に鞭打って精力的に活躍していた。

そして、秋口になる頃には新婚気分も薄れてきたのか、どこかに外泊したアリバイ工作を、友人に依頼する手紙を書いたりもしている。

翌大正八年、勤めていた機関学校が生徒数を増やすにあたり、自ずと授業数も増える予定となった。
芥川は、これ以上教師の仕事に拘束されるのを嫌い、また鎌倉に居る事で文壇から遠くなる事も恐れて、大阪毎日新聞社と定期的に小説を書く契約を交わしてから教職を離れ、田端にある実家へ妻を連れて同居を始める。

芥川は新聞社から貰う給料の全てを養父に渡し、文夫人は舅から月に五円貰い、それで身の回りのものや衣類、子供が生まれてからは子供のもの、そして自分の小遣いに当てていた。

食費などは親持ちではあったが、五円で身の回り全てを賄うのは大変だったようで、ある日文夫人は思い切って夫に「お小遣いが少し欲しいのですが」と頼んでみた。
芥川は、他から入る原稿料に関しては、全部自分の自由にしていて、その金で本を買い、友人達と食事や観劇に出かけ、時には芸者屋で女遊びもしていたのだ。

しかし、夫は妻の遠慮がちな願いを無視し、文夫人はその後、夫に何かをねだる事はなくなった。
夫の作家友達が、着飾った夫人を連れて歩いている様子を垣間見て、家事と子育てに追われ、着飾る機会すらない自分の境遇を、虚しく感じた事もあっただろう。

ある日、芥川が自署にサインを入れ、文夫人の実弟(塚本八洲)に送ってやれと、一冊の本を夫人に渡した。
喜んだ夫人は、早速荷造りして郵便局に出しに行き、帰ってきた所を伯母のフキに見咎められる。「どんな事でも、自分に一応報告してから行動するように」と。

夫人が夜になってこの事を思い出して涙ぐんでいると、ふいに夫がやってきて「どうした?」と尋ねる。
まだ十九歳の若い妻は「あくびをしたら涙が出ました」と誤魔化してしまい、夫はもうそれ以上聞くのは止めた。何となく察していたのかもしれないが、彼には伯母に楯突いて、妻をかばう事は出来なかっただろう。

彼女は、自分の気持は胸にしまい込み、ただ夫の仕事の邪魔にならないよう、彼の仕事が上手く行く環境を作る事に、心遣いをする人だった。
芥川は、そんな夫人に「文子は芥川家のお嫁さんだよ」と言っていたという。自分の嫁と言うよりは「家」の嫁であるという事なのだろうか。

夫人はもっと長く、鎌倉の家で暮らしたかったそうだ。


――つづく
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2012年04月20日

芥川龍之介-若き日の恋と結婚-その三

大正六年は、芥川龍之介と文夫人の婚約期間であった。芥川は、原稿料を使って、蝶が羽を広げた形の帯留めを求め、裏に「りう」と彫らせて若い婚約者への贈り物にしている。
大正七年の二月二日に結婚式を上げるまで、恋文もまめに送っていた。

*  *  *

大正六年九月二十八日 横須賀から 塚本文宛

(略)
それから僕の所へ来たからって、むづかしい事も何もありゃしませんよ あたりまえへの事をあたりまへにしてゐさえすればいいんです
だから、文ちゃんなら、大丈夫ですよ 安心なさい
いや寧文ちゃんでなければうまく行かない事が沢山あるのです 大抵の事は文ちゃんのすなほさと正直さで立派に治ります それは僕が保証します

世の中の事が万事利巧だけでうまく行くと思ふと大まちがひですよ それより人間です ほんとうに人間らしい正直な人間です
それが一番強いのです

この簡単な事実が、今の女の人には通じないのです 殊に金のある女と利巧な女には通じないのです だから彼等には 幸福な生活が営めません
そんな連中にかぶれない事が何よりも必要です
(以下略)

*  *  *

大正七年一月二十三日 

(略)
文ちゃんは御婚礼の荷物と一しょに忘れずに持って来なければならないものがあります それは僕の手紙です 僕も文ちゃんの手紙を一束にしてもってゐます
あれを二つ一しょにして 何かに入れて 何時までも二人で大事にして置きませう だから忘れずに持ってゐらっしゃい

何だかこれを書いてゐるのが間だるっこいやうな気がし出しました 早く文ちゃんの顔が見たい 早く文ちゃんの手をとりたい そう思ふと二週間が眼に見えない岩の壁のやうな気がします
今 これを書きながら 小さな声で「文ちゃん」と云って見ました 学校の教官室で大ぜい外の先生がゐるのですが 小さな声だからわかりません
(以下略)

*  *  *

八歳年下の十八歳の花嫁である。まだ女学生で、世間を知らない純情な乙女は、容姿と教養に優れた、婚約者の言う事を従順に聞いた事だろう。
現代の女性ならば……色々反発する事と思うけれど……。

そして結婚式を上げたものの、目当てにしていた鎌倉になかなか新居が見つからなかった為、しばらくの間、夫は横須賀の下宿住まい、新婦は夫の実家と離れて暮らし、週末だけ共に過ごす事となった。
夫の養父母は、孫のように若い嫁を可愛がってくれたが、この家で養父母より存在感が強かったのは、伯母のフキの方で、彼女はとても厳しかったのだ。
「或阿呆の一生」にこんな一文がある。

*  *  *

「或阿呆の一生」 十四 結婚
 彼は結婚した翌日に「来※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々(そうそう)無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詑びを言つてゐた。
彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……


*  *  *

若い夫婦の今後を暗示させるような出来事である。


――つづく
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2012年04月18日

芥川龍之介-若き日の恋と結婚-そのニ

大正五年の初め頃、芥川は府立第三中学時代からの親友、山本喜誉司に、こんな手紙を送っている。

*  *  *

Mr.K
僕のうちでは時々文子さんの噂が出る
僕が貰ふと丁度いゝと云ふのである 僕は全然とり合はない 何時でもいゝ加減な冗談にしてしまふ 始めはほんとうにとり合はないでゐられた
今はそうではない 僕は文子さんに可成りの興味と愛とを持つ事が出来る しかし僕は今でも冗談のやうにしている
今でもごま化して取合はない風をしてゐる (以下略)

*  *  *

「文子さん」とは塚本文(文子)山本の姪の事で、後の芥川夫人である。芥川の八歳年下なので、この当時は十六歳の女学生だった。
彼女は父を日露戦争で亡くした為、母と弟と共に、母の実家である山本家に身を寄せていたのだ。
芥川が初めて彼女と顔を合わせたのは十代の頃なので、その当時文子さんは、まだほんの子供であった。彼女は、ある事で、曾祖母に怒鳴られ平身低頭して謝っている芥川の姿を覚えていた。

上記の手紙を受け取った山本は、その手紙の真意を汲み取り、姉である文子嬢の母に話したらしく、この年の二月に、自宅でカルタ大会を催した際、芥川が招待された。
文子嬢は、それが見合いの一種だとは全く気が付かず、その日にどんな話しをしたかも気にかけていなかった。
しかし、縁談は水面下で着々と進み、芥川家の人達も、それとなく文子嬢の様子を見に来ていたようである。

*  *  *

大正五年 恒藤恭宛

かるたは最近塚本でとった その時僕はそこにゐるうまい人たちの中の一人であった 何にしてもかるたと云ふものはあまり一生けんめいにとる気にはなれないものだ
もう来年のお正月まではとらないだらう この頃はあるeasenessを以ってある量の仕事のかたがつくので割に愉快にくらしてゐる ほんやくもすませた

文ちゃんは多分もらふだらう こなひだうちの伯母と芝の伯母と二人でみに行った 二人とも good opinion を持ってかへって来たらしい
尤も僕の前では遠慮して悪口を云はないのかも知れないが。 僕自身も前より good opinion を持つやうになった。
(以下略)

*  *  *

この三月、芥川は「鼻」を夏目漱石に絶賛され、まだ学生の身ではあったが、文壇から一躍注目される立場になった。
大學を卒業すると、彼はあちこちに短編小説を発表しながら、十二月一日付で横須賀海軍機関学校の英語教師に職を得る。
そして、塚本家と、正式に「縁談契約書」なる書類を取り交わし、塚本文と正式に婚約したのであった。彼女は目鼻立ちのはっきりした、少々ぽっちゃり目の可愛らしい少女だった。

大学を卒業したばかりの二十四歳の青年と、まだ女学生の十六歳の少女との婚約である。
幼い頃に少し顔を見知って、数年ぶりに世間話しをした程度の相手と婚約するなんて、今の時代にはちょっとどうかと思うが、当時はそれほど不自然な話ではない。
女学校を卒業した後、行き場が無い方が女性には大問題だった。なんとなれば、裕福な家の子女は就職などせずに、良家の子息の元へ嫁ぐのが理想だったのだから。

さて、芥川が亡くなった際、夫人が二人の間に取り交わした手紙類は棺に入れたと謎の名前―横尾龍之助―そのニに書いたが、どうもそれなりに手元に残っていたようだ。
その中には、若い娘を、自分好みの女にしようと意図しているのではないかと邪推したくなるものや、あまりに創作的で、お伽話か何かかと思うような甘ったるいものもある。

文子夫人も、彼からの手紙を回想して、こう語っている。

「――私はときどき、主人の手紙も創作の一部であったかもしれないと思ったりします」

 ワタクシハ アナタヲ愛して居リマス コノウエ愛セナイ位愛シテ 居リマス
 ダカラ幸福デス
 小鳥ノヤウニ幸福デス


確かにこんな手紙を貰ったら「本気ですか?」と訊きたくなるだろう。


――つづく


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2012年04月16日

芥川龍之介-若き日の恋と結婚-その一

「或阿呆の一生」 三 家

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。
 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。

 
*  *  *

芥川龍之介は、牛乳販売店を営む新原敏三と、フクの間に長男として生まれた。

その龍之介が生まれる前年、長女のハツが七歳で、疫痢にかかって夭折した。母親のフクは、自分が食べさせたものが原因で、可愛い娘を死なせてしまったと自分を責め、遂には正気を無くして、ただ一日中ぼんやりと座っているようになったと言う。
芥川の掌編「点鬼簿」に、実の両親と写真でしか知らない姉の死について、詳しく書かれている。

そんなフクの世話をする為、妹のフユが新原家に手伝いに行くのだが、そのまま義兄と内縁関係になってしまうのであった。その後、フユは義兄との間に男の子を産み、フクが亡くなってから正式に敏三の妻になった。

フクに紙を渡すと狐の絵(お稲荷さん)ばかり描くので、てっきり狐憑きかと、周囲の者は拝み屋を呼んだり滝に打たせたりしたが、元には戻らなかった。
実母がそんな状態なので、産まれた長男を世話する事が出来ない為、龍之介はフクの兄である、芥川道章、とも夫妻に預けられ、フクの姉で、結婚せずに兄の元に身を寄せていたフキが、龍之介を我が子のように面倒を見て育てた。

フキが生涯独身だったのは、兄の道章に、鉛筆か何かで右目を突かれて障害を負い、かつ、実の叔父(伯父?不明)と間違いを犯した事を恥じた為と、芥川は小穴に言ったそうだが、小穴から見たフクは、眇めではあったが、失明しているようではなかったと「二つの繪」に書いている。

余談だが、フキ、フク、フユの他に、彼女たちにはフジ、フミと言う姉と、三人の兄弟がいたそうだ。

実母が亡くなり、実家では長男を取り戻そうとしたが、子供のいなかった芥川道章は、死んでも返さないと実父の要求をはねつけ、龍之介もまた馴染みの薄かった実家に帰りたくはなかった。
なにより、母代わりの伯母の事が大好きだったのだから。そして龍之介が十一歳の時、正式に芥川家の長男として養子になる。

「大導寺信輔の半生」は、彼の少年時代を知る手がかりになるだろう。
この作品の中で、彼の家(養家)は貧しかったと書いているが、客観的に見て、全然貧しそうではない。
質素倹約をモットーとする家風であったろうとは思うが、何不自由なく上の学校へ進ませてくれて、好きな本を買い、気ままな旅行もしているのだ。貧しいわけがない。彼の「貧しい」という感覚は少々世間とズレているように思う。

さて、大正四年、芥川龍之介が二十四歳になる年の事、彼は突然、ある女性を愛し、あっという間に諦めてしまう。
親友、恒藤恭宛の手紙が残っている。

*  *  *

大正四年

二月二十八日田端から。恒藤恭宛

ある女を昔からしってゐた。その女がある男と約婚をした。僕はその時になってはじめて僕がその女を愛してゐる事を知った。しかし僕はその約婚した相手がどんな人だかまるで知らなかった。
それからその女の僕に対する感情もある程度の推測以上に何事も知らなかった。その内にそれらの事が少しづつ知れて来た。最後にその約婚も極く大体の話が運んだのにすぎない事を知った。

僕は求婚しようと思った。そしてその意志を女に問ふ為にある所で会ふ約束をした。所が女から僕へよこした手紙が郵便局の手ぬかりで外へ配達された為に、時が遅れて、それは出来なかった。しかし手紙だけからも僕の決心を促すだけの力は与えられた。

家のものにその話を持ち出した。そして烈しい反対をうけた。伯母が夜通しないた。僕も夜通し泣いた。あくる朝むづかしい顔をしながら僕が思切ると云った。
それから不愉快な気まづい日が何日かつづいた。其中に一度、女の所へ手紙を書いた。返事は来なかった。

一週間程たってある家のある会合の席でその女にあった。僕とニ、三度世間並な談話を交換した。何かの拍子で女の眼と僕の眼とがあった時、僕は女の口角の筋肉が急に不随意筋になったやうな表情を見た。女は誰よりもさきにかへった。

あとで其処の主人や細君やその阿母さんと話してゐる中に女の話が出た。細君が女の母の事を「あなたの伯母様」と云った。
女は僕と従兄弟同士だと云ってゐたのである。
(以下略)

*  *  *

この会合の二週間後くらいに、彼女から、ただ幸福を祈っている、という内容の手紙が届いたそうだ。
この失恋が、芥川の今後の恋愛に大きな影を落としたと言う人達も多いようだが、そうだろうか? まるで小学生のような恋ではないだろうか?

女友達に結婚話が湧いた途端に急に恋しくなり、大慌てで手紙を書き、ろくに気持ちを確かめる事もせず、勢いづいて家族に結婚したいと話し、伯母に泣かれて自分も泣いて、僅か一日で諦める。とても大人の恋愛とは言えないし、具体的な結婚観も見えてこない。その上、女は彼の事を周囲に「従兄弟」と称して牽制しているのだ。

自分のものでないものが、誰かのものになるのが急に惜しくなり、大慌てで自分のものにしようとしたものの、それは「もの」ではなく「一人の人間」なのだ。

こんな変な精神状態で結婚しなくて良かったじゃないかと思うのだが、この件がきっかけになったのかどうなのか、芥川も芥川家の老人達も、跡取り息子の結婚について色々考えるようになったのではないかと推測される。


――つづく

posted by 風花散人 at 23:58| 北海道 ☔| 芥川龍之介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月14日

謎の名前―横尾龍之助―そのニ

昭和二年七月二十四日午前二時頃、芥川は二階にある書斎から降りてきて、夫人の寝ている寝室に入った。
その前に彼は、深夜だというのに伯母の部屋を二度訪れ、小さな頼みごとなどをしている。母親がわりの伯母と、最後の別れをしたかったのだろう。

寝室の蚊帳の中に入ってきた芥川に、夫人は「あなた、お薬は?」と訊くと、彼は「そうか」と一言答えて、普段飲んでいる睡眠薬を飲んでから床についた。

朝になり、臨終が確認された時、夫人は安らかな死に顔(夫人にはそう見えた)を見て、「お父さん、よかったですね」と言う言葉が、思わず口をついて出たという……。

芥川が亡くなってすぐ、夫人は蒲団に手を入れて、失禁していないかどうかを確認したそうだ。スタイルを重んじる芥川が、死後に恥ずかしい思いをするのが忍びなかったそうだが、その心配は無用だった。

芥川家に駆けつけた小穴は、芥川の書斎の机に、小さな瓶とこぼれた粉末を目撃しているが、それが青酸カリなのか、睡眠薬なのかは分からないと書いている。
夫人の回想を読むと、即効性のある毒物ではないようだが、使用された毒物については公表されなかった。

芥川の通夜は三日間続き、真夏の東京の事、ドライアイスの無い時代なので、遺体の状態は日に日に悪くなっていった。

*  *  *

小穴隆一「二つの繪」より

――家族がお別れをするその前に、僕と竹内千治郎(芥川家の親戚)が棺のなかを改めることになり、谷口が立って頭の方へまはり、南無妙法蓮華経と大聲で唱へながら蓋に手をかけて、「あ!だめだ。」とわめいたときに茶の間から廊下づたひに急ぎ足できた夫人が、「忘れもの、」といってすうっとさしいれた
(谷口は蓋の頭のはうを一尺ばかり持ちあげてゐた、その間にいれたのでさしこんだといふよりなげこんだといふかたちであった。)

臍緒の包に(臍緒の包であらう)一字一寸角もあらうかとみえた横尾龍之助といふ文字を見た。
(中略)
横尾龍之助が芥川龍之介となって死んでゐる。芥川はその間の消息を僕に一度も言はずに死んでゐる。僕は僕の知ってゐる芥川が確に死んだことは僕の目でみた。
しかし、横尾龍之助が芥川龍之介になったその間の、正確な安心して聞ける事情といったものは今日に至るも知ってゐない。


引用以上

*  *  *

この包に書かれた「横尾龍之助」という文字を見たのは、小穴一人だけだった。これは一体、誰の名前なのか?

小穴は別に、センセーショナルな暴露記事を書きたかったわけではなく、芥川の苦悩の原因の一つが、この誰にも知られていない出自のせいではなかったかと言いたかったようだが、周囲はそうは取らず、早速、東京新聞社の記者が色々調べ、どういうわけかその記事を、小穴の名前で発表し、彼を憤慨させている。

芥川は、小学生時代の署名には「芥川龍之助」と書いていたそうだ。「助」を「介」に改めた事情は分からないが、「芥」の字面と合わせたのかもしれない。
彼の育った環境が複雑なのは割りとよく知られているが、それについては長くなるので、また改める。

さて、東京新聞の記者は、かつて芥川家に「横尾その」と言う女中がいたらしい、という情報までは掴んだが、結局それ以外は何も分からなかった。
小穴は、芥川の容貌は、芥川家の女性達によく似ているので、他の女性が生んだ子供だとは信じられないと書いている。
ならば、芥川家の女性(実母か伯母か?)と、横尾という苗字の男性との間に出来た子供なのか……?

ここまで、この話にお付き合い頂いた人達は、こう考えているのではないだろうか?
「それは、臍の緒を投げ込んだ夫人に聞けばいいのでは?」

そう。そこで、文子夫人の回想だ。


*  *  *

「追想 芥川龍之介」 芥川文述 中野妙子記

――主人とは生前、どちらが先に死んでも、お互いの手紙は、棺の中に入れるようにと約束をいたしておりましたので、私はその約束どおり、出棺の時、うさぎ屋の主人谷口喜作さんに頼んで、棺の中に、とり交したお互いの手紙と、主人の「へその緒」とを一緒に入れておきました。

「へその緒」は折りたたまれた和紙の中に入っていて、その和紙もすっかり古びてしまい、それに書かれた名前も、薄ずみのせいか、筆のかすれと共に、字もろくに見分けられないくらいでした。

 小穴隆一さんは、その「へその緒」の和紙に書かれた名前が、主人の母のではなく、違った女名前が書かれていたとの理由で、龍之介私生児説を発表されました。

 彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。(「或阿呆の一生」)
などというのからも、そんな推測が出来るのかも知れません。
 私は、主人がもし私生児であっても少しも構いませんのですが……。


抜粋以上

*  *  *


話は食い違っているのだ。

「一字一寸角」で、はっきり男の名前を見た小穴。
「字は見分けられなかった」と言う、文子夫人。小穴が「女名前」云々は、例の東京新聞の記事を信じたのではないかと思う。

また、仮に文子夫人が、この名前の由来を知っていたとしても、彼女は夫の秘密を軽々しく口にするような「芥川家の嫁」ではないのである。

しかし、真相はまさに「藪の中」に消えた。
posted by 風花散人 at 00:28| 北海道 ☔| 芥川龍之介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月13日

謎の名前―横尾龍之助―その一

この記事を書くにあたり、まずは洋画家、小穴隆一とその著書について説明したい。

「或阿呆の一生」 二十二 或る画家
 それは或雑誌の※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さし画だつた。が、一羽の雄鶏の墨画は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの画家のことを尋ねたりした。
 一週間ばかりたつた後、この画家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。

 彼はこの画家の中に誰も知らない詩を発見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を発見した。
 或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍に忽(たちまち)この画家を思ひ出した。

 丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神経のやうに細ぼそと根を露あらはしてゐた。それは又勿論傷きずつき易い彼の自画像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ発見は彼を憂欝にするだけだつた。
「もう遅い。しかしいざとなつた時には……」

*  *  *

1894年に生まれた小穴隆一は、芥川にその画風を買われ、以後彼の著作の装幀や挿絵を手がけた。雅号は一遊亭と言い、芥川の作品の中にも「O君」として度々登場している。
小穴は芥川と知りあってしばらく後、右足が壊疽にかかり足首から下を切断する事となり、以後、彼は右足に義足を付け、松葉杖をついて歩くこともあった。

芥川は小穴の画風以外にも、その人柄を高く買い、また彼の誕生日が芥川の実母の誕生日と同じな為「――君は僕の母の生まれ変わりではないかと思うよ」と、度々口にしていた。
そのせいか、芥川は小穴を、常に自分の近くに住まわせている。

小穴宛の遺書には、自分亡き後、未亡人と結婚してくれと記し、子ども達には「小穴隆一を父と思へ。従つて小穴の教訓に従ふべし。」とある。
遺言のこれらの部分は、結果的に不履行になってしまったが、当然ではあろう。

それにしても、芥川の小穴に対する愛着(執着)は、相当のもので、ちょっと可怪しいくらいだった。
例えば、小穴の末の妹が危篤になった時の事、急ぎ上京しようとする小穴を芥川は駅まで見送り、見舞いにと赤い薔薇の花束を買ってくれたのだが、ホームで別れ、小穴が座席に付いてほっと一息ついた時、車両の前の方から見覚えのある人物が近づいて来た。

芥川だった。
彼は小穴の前の席に腰を下ろし、驚いて、ご家族が心配するから降りてくれと頼む小穴に言った。
「一と晩でも君と離れるのはいやだ。」

小穴は大変困ったが、芥川は幾つかの駅を過ぎたあたりで、痔が痛むと言って汽車を降りたそうである。

まるで恋人同士のような話ではある。
他にも、芥川が小穴に甘えるエピソードは沢山あり、小穴はその芥川の弱さを悲しんでいる。

芥川が薬物を飲んで自死した時、彼の家族は、すぐに掛り付けの医師と小穴を呼んだ。既に絶命はしていたが、芥川の死に顔はきれいで、小穴はF10号のキャンパスに、木炭で彼のデスマスクを描いたのである。

この時のスケッチが、昭和31年1月に中央公論社から発行された「二つの繪 芥川龍之介の囘想」の表紙に使われている。





さて、この「二つの繪」は、言ってみれば改訂版で、元々は昭和7年に中央公論に書かれ(連載か?)、その後、昭和15年に刊行された小穴の著書「鯨のお詣り」に収載されていたのだが、何年も経ってから読み直してみたところ、思い違いなどが散見されたそうで、そういう部分を訂正、加筆して発行されたものだ。書影ではお分かり頂けないかもしれないが、新書版くらいの小さな本だ。

芥川龍之介の伝記や回想録的な本は沢山出ているが、彼の自死前後の事をつぶさに見聞きしていたのは、この小穴隆一と文子夫人だけではないかと思う。

*  *  *

――横尾龍之助
この名前は、小穴の記憶と著書にしか現れない名前だ。文子夫人は何とも語らない。
そしてこの謎の名前は、暴露的な出生の秘密として、嫌な方向に波紋を呼んだのであった。


――つづく
posted by 風花散人 at 00:37| 北海道 ☔| 芥川龍之介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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